【なぜ、デザイナーをめざしたのか?】

こんにちは。

アパレル界のニット姫 こと、
工業ニットスペシャリスト・Hiromiです。

さて、なぜデザイナーをめざしたのか?
ーの前に、いつごろからそんなことを考え始めたのか。。。ですが、
【デザイナー】というワードに絞り込まれたのは
記憶では小学校高学年のころで、
卒業するときには「インテリアデザイナーか
ファッションデザイナーを目指したい」
と、卒業アルバムに作文が残っています。

三宅小学校卒アル表紙600dpi
作文

 ↑ いつ見ても「字ぃ、汚な~、、、」と思います💦
誤字も多いし。アホ丸出しですw
そして、原稿用紙いっぱいに、1マス残さず、書き込んでます(苦笑)
このころから、文字数多い(クドイ)子だったようです^^;
結びには、
「…略 こんなことは、本当に永遠の夢で終わるかもしれません。
でも、最後までゆめを捨てずにいっしょうけんめいかなえられるように
がんばっていきたい。また、そうしなければいけない。」
と記しています。
この頃から既に性格は「一本気」

ただ、今読むと気になるのは
「…また、そうしなければいけない」

と、自分に何かを架すような言葉で結んでいることです。
50歳も半ばになった今、当時の12歳のころを振り返ると、
あの頃は子供ながらに
「女が男の人に頼らずに生きていける道を何が何でも探さないといけない」
ーと、根底になんか思い込みがあって、
その気持ちの現れであったのではないかな、と思います。
いつも、女の人でも一生働ける職業を考えていました。
当時一番多かった「お嫁さん」という選択肢は
潜在的に「0」だったと思いますw

ここからは、チョット重い話・・・ですが、
私の人生はココをなくして始まらないので…
やっぱり書くことにしました💦 赤裸々告白デス(;’∀’)


当時私が育った環境は、現代であれば完全なる
「DVによる父親の独裁家庭」でした。
昭和一桁生まれの男尊女卑の時代の男の人には
特段珍しいわけでもなかったかもしれません。
妻が夫の暴力を受け入れるのはありがちな時代だったと思いますが、
ただ、我が家はちょっと度が過ぎていたとは思います。
現代だったら私らシェルターに匿われているレベルかな…

母曰く「パパは親に愛情を注いでもらえなかったから可哀想なんよ・・・」
といつも言っていました。
常に家族が自分の傍から行動範囲を広げることを極端に嫌い、
家族以外の人と仲良くすることを嫌う父でした。
母は近所のスーパーの買物以外に自由行動は一切許されず、
(電車に乗ってどこかに出かける…はありえません)
離れて暮らす福井県の祖母にも
会いに行くどころか電話することも許されず、
父が監視・管理する家計簿の網の目を潜り
1円単位で細々溜めるへそくりで10円玉が20-30枚程度まで溜まると、
スーパーの角の公衆電話から電話して
実家の弟たち、祖母の暮らしぶりを案じていました。

そんな母は、毎日ほんの些細なことをネタに
父から言葉の暴力・力の暴力を受けていました。
鉄の金庫の扉に後頭部を何度もぶつけられ、
脳内出血を起こしてあわや手遅れ…になりかけたこともあります。
その時母は、「この頭の痛みを我慢すれば死ねる…」と思って
病院へ行かずに数日我慢していたらしいのですが、
どうにも我慢の限界で病院に連れて行くと
病院の先生は私たち家族に「あと30分遅れててたら手遅れでしたよ」
と言いました。
その原因について聞かれた父が、
「自転車で転んだらしい」と嘘をつくところを目の前で見ました。

小学校の頃は、叱られている母を見て
「パパはえらいんやなー。ママはなんでそんなにパパに怒られること
ばっかりするんやろう…」と思っていましたが、
中学生くらいになるとそんなことやらなんやらで
なんとなくその理不尽さが見えてきて。
何度か母に離婚を勧めましたが、
そのたびに母は、
「あんたら連れて生きていけるわけないやんか!」と
泣き崩れる日々ー
毎夜母の泣き言を聴く日々が続きます。

(そうか、私らがおるからママは自由になられへんのか…
私らがおるせいなんか…)

そんな風に思ったこともありました。

そんなある日母は、私を父の元に置いて
失踪しました。
妹だけを連れて…

「捨てられたぁー」

そう思いました。
”わたしら”ではなく、邪魔やったんは”わたし”やったんか-
それが、中一の夏休み。

おとなの修復交渉があったのか何があったのかはわかりませんが、
約1か月?ほどして、母は帰ってきました。
「置いてってゴメンね」と言うと、
浴衣の帯をお土産に買ってきてくれました。
当時の私の浴衣の帯が、子供用の柔らかい絞りの布地の帯で、
同い年位のみんなが大人っぽい織物の帯で近所の神社の夏祭りに行くのに
私が「恥ずかしいからイヤや」と言っていたのを覚えてたみたいでー
でも、その帯の結び方を、買ったお店で習ってきたはずなのに
母は結局結び方がわからず(苦笑)

その帯を結んでお祭りに行くことは一度もないまま、
私は高校3年の春に とあるきっかけで父から逃れるために
10万円足らずの通帳ひとつ握りしめて家を飛び出し、
独りでの生活を始めました。

当時、剃刀で手首を切って自殺をしようとしましたが、
死ぬ勇気が足りなくて死ねませんでした。
死ねないなら、生きるしかありませんでした。
次の選択肢として、家を出て生きてみる路を選択しました。
当時任されていた新体操部(主将でした)の
高校最後の春季大会が終わった後です。
主将ですからw、そこは最後まで責任を全うしました。

そこから、私の「何でもダメ元でやってみるしかない(;’∀’)」
人生の幕が上がりました。

なんやかんや、ありましたよ。
「これは越えられないかも…」と諦めそうな壁にも何度か。。
でも、現在何とかまともに(?)人生生きてこられたのは、
小学校の作文に書いた
「ファッションデザイナーになる」という
夢があったからじゃないかなーと思います。

そして、たくさんの「あかの他人」の方々が
親身になって助言くださったり、
助けていただいたことがとても大きかったです。
お金の援助こそいただきませんでしたが、
それ以外の心の援助は沢山してもらいました。
もちろん、中学校からの親友をはじめとした
沢山の友人に支えられたのは言うまでもないのですが、
同級生の友達だけじゃなく、
それら大人の方々との出会いと理解に救われてなかったら、
十代の私はどこかで絶望し、
人生の平均台を踏み外して奈落の底に堕ちていた……かも💦

独りになってからの生活費と高校の授業料は、
アルバイトで凌ぎました。
雨露凌げる住むところは、
「高校を卒業するまで」という約束で、
中学生時代の親友のお母さんが倉庫代わりに使っていた
自身の持ちものだった古い長屋の一室を
無償で提供してくださり、
卒業までそこに住まわせていただきました。
約束通り高校卒業と同時にそちらを出て、
自力でアパートを借りました。

18歳無職(アルバイト生活)で借りれたのは、
家賃¥26,000.-の、日が当たらない木造2階建てアパートの一階の1室。
もちろんお風呂なし。辛うじて水栓のトイレのみで、
6畳和室と4畳半と書いてあったけど実質3畳くらい?のDKでした。
毎日天井や台所のシンク下をネズミがドタドタ走る、
ある意味とても賑やかなアパートでした。

この時のお母さんにが後に
「あの時もっと住んでても良かったのに…」と
言ってくださいましたが、
約束は約束だと当時思っていたと思います。
居続けたいと相談するなどと考えも及ばず、
高校卒業まで匿ってくれたこの方の恩に感謝し、
丁寧に掃除をしてお礼を伝えてその長屋を退去しました。
ただ、当時この助けの手がなかったら、
私はどうなっていたかなーと今でも想います。
もしかしたら、止む無く実家に戻り、
父の罵倒の雨に晒される毎日で
すっかり心は壊れてしまったーかもしれません。

ーなので、孤立した人間が他人に差し伸べてもらう
ほんの少しの優しさで、
人生が転換することはとても他人事に思えません。

高校卒業後の進路は、
自力でのファッション専門学校への路を模索していました。
ただ、手元の貯金もとっくに底をついていたので、
最初はアパレルに高卒で就職してデザイナーになる道はないものか、
本屋さんで売っている就職情報誌から幾つかの会社の人事部に
10円玉を積み上げた公衆電話から電話しましたが、
もちろん丁重に断られ…(今思えば当たり前(;’∀’))

半ば諦めかけていた時に、
学校の廊下で専門学校の入学金を対象とした
「あしなが育英会奨学金」のポスターを見つけ、
(親同伴じゃないし、こんな状況説明しても理解してもらえないよな…)
と思いながらもダメ元で担当の先生の元に行くと、
簡単に申請の推薦書を書いてくれて、
それを持って育英会まで面接を受けに行きました。

育英会が貸してくれる入学金の上限は「19万円」で、
私は19万円までの入学金で行ける専門学校を探しました。
家を出るまではマロニエファッション専門学校に
行きたいと思っていましたが、
当時の入学金が確か60万円、授業料もとても高くて
当時の私のバイト生活との両立では絶対無理…
(モード学園は140?万超えで遥か遠い憧れの学校でした💦)

そしたらなんと1校だけ、しかも丁度19万円の入学金の
専門学校がありました。
それが、のちに私を「(株)ワールド」への就職へ
未来を繋げてくれた
【東洋ファッション工科専門学校(旧名)】という、
大阪の千林という下町にある
とても小さくアットホームな専門学校です。

画像3

 ※当時1学年1クラスしかなかった3年卒業間近のクラス写真※


入学金を納めるときに同時に年間授業料一括払いが基本でしたが、
「特別な事由がある方はご相談ください」と
パンフレットに小さく書いてあった文字を見逃さなかった私は、
入学手続きと同時に事務局へ駆け込み月額分割のお願いをして、
毎月初めに月賦の集金袋に授業料¥24,000.-を入れて通う
専門学生生活が始まりましたw

ダメ元でも諦めずに粘ってみたら、
もしかしたら路って開けるのかもしれない…
この学校との出遭えたことは
それが身に染みる最初の大きな体験です。

当時は地元のお寿司屋さんで接客のアルバイトをしていて
時給は@600.-からスタート。
高校時代のパン屋さんでのアルバイトは@380.-だったので、
それからしたら雲泥の差の好条件♪ 
しかも、【夜ご飯の賄付き】が何よりの魅力でした。
(このお寿司屋さんでのバイト生活でも
たくさんのおとなに支えられ、沢山の経験をしました。
私の人生のとても大きなターニングポイントなのですが、
話が尽きないので今回は割愛。どこかで番外編でも書きますw)

実は、私は広くコミュニケーションをとるのは苦手で社交性が低いです。
独立開業してからも、なかなか自分から初対面の人にお声を掛けたり
名刺交換のご挨拶するのがとても苦手という、
経営者としては致命的なんですが(😢)、
一度ご縁が繋がった人のことは放っておくことができない
お節介なメンドクサイところがあるみたいで、、、
それは、この多感な頃の【他人に助けられた体験】が
そうさせているのかなーと思います。

・・・というところで、
今日のお題の「なぜ、デザイナーになったのか?」の
応えになっているかどうかはわかりませんが、
デザイナーを目指したきっかけと、
デザイナーへの道への初めの第一歩はお伝えできたでしょうか?

何か、自分の未来に得体のしれない不安を感じているひと、
どこかで人生を諦めちゃっているひとがいたら、
騙されたと思って
あと一歩、「ダメ元」で何か心がふるえることに向かって
踏み出してみることをおススメします^^

どうせ、何もしなければ今現在は1秒前と何も変わらないのだから、
ダメで元々 なんですよ。
多分。何事も~。
私は、そんな気がしています^^

さて、
次回の【ダメ元でチャンスを掴む③】
● なぜ、ニットデザイナーなのか?

について、綴ってみたいと思います。
ではでは~

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